ソウル・フラワー・ユニオン 中川敬 独占インタビュー

NEWS / INTERVIEW

2016.06.11 Sat

ソウル・フラワー・ユニオン 中川敬 独占インタビュー

先日、徳島初の単独公演が記憶に新しい「ソウルフラワー 中川敬」氏への独占インタビューを敢行!(徳島某所にて)

 

使用1

 

—中川さん、ライブお疲れ様でした。徳島のお客さんの雰囲気はどうでしたか?
中川:  全国で5本の指に入るくらいよく声が出るなと。(笑) 結構、博多が声出るんやけど、それに続くくらいみんな歌うなって。嬉しかったよ。地方のお客さんはシャイな人が多くて、<満月の夕>のサビ、「(唄が聞こえる) イヤサッサ!」が出てこない。今日はちょっと、徳島にグッときた。

 

—ところで、生誕半世紀祭ということで、50歳になっての心境をお聞かせ下さい。
中川:  実のところ、何もめでたくなくて… 別になりたくなかったです。(笑) ビックリするよね、俺50!?って。ジョン・レノンの10歳上。(笑) 10代の頃に音楽雑誌『ミュージックライフ』で「ミックジャガ-38歳、ツアーの前に毎日8キロ走る」っていう記事を見て、「38歳のおじいさんがロックやってるの?」って思った。(笑) 120歳まで生きる予定なんで、「あと70年ある」っていう具合に気持ちを切り替えて生きていきます。(笑)

 

—その50歳としてこのツアーの意味は?
中川:  そんな深い意味はないよ。十進法は使えるなって思っただけ。(笑) 一応みんな笑顔で「おめでとう!」って言ってくれるから気分もいいし。ただ、ツアー・タイトルが『生誕半世紀祭』ってことになるのであれば、そこはちゃんとやろうと。山口百恵とかいしだあゆみとか、自分が子供の頃に好きやった曲をカヴァーしたり。あと、自分の過去のアルバムの中の曲を今一度掘り出してみたり。そういう時期にしようかなと。

 

使用3

 

—話は変わりまして阪神淡路大震災、東日本大震災の被災地を回って出張ライブを行っている中川敬さん、自分が出張ライブに行く前と行った後の気持ちについてお聞かせ下さい。
中川:  27歳までニューエスト・モデルを約9年間やって、ソウル・フラワー・ユニオンになって2年ぐらいの時期やった。「時代」っていうのもあったと思うけど、ソウル・フラワ-・モノノケ・サミットの被災地出前ライヴをやるまでは、「アートをやってる」っていう感覚が強くてね。「分かる奴に分かればいい」っていう感じ。ところがいざ避難所や仮設住宅で、おじいちゃんおばあちゃんの前で民謡や演歌をやってみると、やはり、何とかこの人たちを楽しませたいということが出てくる。簡単に言うと、ちゃんと芸をやりたいなと。それまでの「パンク」とか「ロック」とか、そういう言葉に甘えて「アートや!」って言ってる感じが自分の中から吹っ飛んだというか。もちろんアートも大事。ただ、そういった逡巡が28〜29歳の自分にとっては大事で。忘れがたい出会いが’95年〜’96年頃にたくさんあってね。避難所、仮設住宅、復興住宅、障害者イベント、寄せ場等々、’90年代後半、数年間に200発以上の出前ライヴをやって。あの活動がなかったら、今頃、俺、踏ん反り返ってたんじゃない? J-ROCKのプロデューサーか何かになって。(笑) 震災一週間後にメンバーのヒデ坊(伊丹英子)が「避難所に歌いに行こう」って言い始めたところからすべては始まった。真の音楽の旅が始まった。しかも終わった後に下手くそな民謡を歌ってるのに、おばあちゃん達から「本当に良かった!」とか言われまくったら、「マズい!練習しよ」ってことになるよね。(笑)

 

—いろんなアーティストが東北に行ってましたが、他のアーティストにはない自分だけの復興支援とは何でしょうか?
中川:  阪神淡路大震災の時に、頻繁に神戸で出会ったアーティストは、ほとんどが上の世代の「芸能界」の人たちやった。当時俺らは二十代後半でね。で、俺、パンク・バンドにこそ来て欲しいなっていう感覚が当時すごくあって。今回、東日本大震災の当初、Twitterとかやってるからすぐに情報がやって来て、ハードコア・バンド“SLANG”のKOたちや“BRAHMAN”のTOSHI-LOWたちが支援物資で動き始める。そういやTOSHI-LOWにはすぐ電話したな。きたな!っていう感じがあってね。“アジカン”のゴッチなんかも早い段階からマメな発信を始めてたし。下の世代のいろんなミュージシャンが東北に関して動きまくったことが、俺は本当にうれしかった。特にパンク・バンドは普段から全国を機材車で回ってるから、人脈も太いし、スピーディーにあらゆる職種の人間が動く。心強かった。今回の熊本・大分も、連中、動き出してるしね。素晴らしい。

 

—阪神淡路大震災の情景を見て作られた<満月の夕(ゆうべ)>ですが、出前ライブではたくさん唄ってると思います。その中での思い出エピソードはありますか?
中川:  それキリがない。(笑) ’95年当初は単なる新曲の1曲としてしか扱ってなかった。いろんな人が歌ってくれて、徐々にあの曲が複合的な意味を持ち始めたっていう。ひとつ忘れられない話があってね。’97年ぐらいに知り合いのNHKのディレクターが神戸に取材で入って、後から聞いてんけど、有線で<満月の夕>がかかってる時に、小学生低学年ぐらいの子が彼に走って近づいて来て、「この曲おっちゃん、何の曲か知ってる?」「なにー?」って聞いたら、「僕らの歌やねん」って言った、という話。その一言をそのディレクターから聞いた時に「おお、大ヒットやん!」って。売り上げじゃない形での大ヒット。嬉しかったね。カバーをしてくれるミュージシャンも現れてきて、「もしかしていい曲かも」っていう感じになっていく。

 

—先日急死してしまったプリンスについて、一言お願いします。
中川:  出てきた当時、すごかったよ。JB、スライ、P-FUNKの系譜の上に、大型新人登場!っていう感じやった。早すぎ。寂しいね。デヴィッド・ボウイとプリンスの後はしっかり俺が引き継いでいかなあかん。(笑)

 

—大型新人フォーク歌手の中川敬さん、本日は本当お疲れさまでした!
中川:  阿波の国の皆さん、ほんまにありがとう! また来ます!

 

 

13059417_878773662233550_342837396_n

 

 

■中川敬
ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のフロントマン。2016年4月23日に栄町Live&Bar Funky Chickenにてsupported by WOELD EXOTICA 「ソウルフラワー中川敬・生誕半世紀祭」で初徳島公演を果たした。
●ソウル・フラワー・ユニオン公式サイト   http://www.breast.co.jp/soulflower/
●ソウル・フラワー・ユニオン公式 TWITTER  https://twitter.com/soulflowerunion